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木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』

2023.2.22  18:00開演

ロームシアター京都 サウスホール 

木ノ下歌舞伎『桜姫東文章

 

ネタバレあります

 

Twitterに大体の感想を呟いているので重複してるところもあるんですが、長文で書きたかったことをブログにも。

 

Twitterはこちら。ツリーに15ツイートあります。

 

今回キャスト以外に事前の情報を全く把握していなくて、観た後にパンフレット*1を見たんですが、演出の岡田さんが「翻訳」と仰っていて、なるほど翻訳、と腑に落ちたのでした。

 

そんなに多くを見ているわけではないけど、歌舞伎を見たときに「これ視覚と言葉に騙されてるけど結構えげつないよなぁ」って思うことはままあって、こうやって現代に改められることでそれがさらに浮き彫りになった感があります。

無意識に現実と乖離したものだと捉えていることを思い知らされるというか。

 

視覚っていうのはそのまま、顔とか衣装の美しさから感じる「現実離れ」感。

言葉は歌舞伎の場合だと『古語現代語に変換(脳内でも、イヤホンガイドでも)意味』となるので、どうしてもワンクッション入ってしまうんだと思います。

 

例えば、清玄が桜姫に迫るシーンは今回の岡田脚本だと「一回ヤらせて」になるのでより生々しいっていうか、嫌悪感が増してしまう。

別に歌舞伎以外でもあるんですけどね。「ただしイケメンに限る」とかもそうだし、「綺麗な(耳障りのいい)言葉で書かれている」とか。個人的に歌舞伎にそれをわかりやすく感じるだけで。

 

とはいえ、今回の演出では、「翻訳」した分を別の手法で遠ざけてるのかな、という印象を受けました。言葉遣いは現代語の中でもより若者言葉だし、衣装はストリート系(もはやアバンギャルド)で「現代の若者」を想起させるんだけれど、明らかに台詞に抑揚がなかったり、動きが不思議だったり、感情面でスッと入ってこない。形式も劇中劇(舞台上で寝転んで見ている人たちがいる)で、メタな台詞もあったりするので、常にどこかで俯瞰して見ている、という感覚が抜けない。

 

そのほか印象深かったのは、大向うの使われ方でした。

歌舞伎は劇場で何度か見ていますが、数を見ていないせいもあって、大まかな決まりとかタイミングがあることはなんとなくわかるけど、「何かそういうもんなんだな」くらいの感じで、未だに意図があんまり掴めてない。

 

ただ今回は「大向こうっぽいもの」が劇中で飛び交っていて(例をあげると「ベニヤ!」とか「ポメラニアン!」とか)笑いつつ、これが「〇〇屋!」の代わりなのかなー、と思ってたんですけど、ラストで桜姫が家宝の都鳥を放り投げるシーンで「ハレルヤ!」って声がかかる。これで「話が締まった!」と感じたので、これが本来の大向うの意義なのかもしれない。

 

ちなみにこのラストシーン、Twitterを見てたら、「歌舞伎通り御家再興で大団円にならないのがいい」って書かれている方が何人かいて、確かにそうだなー、と思いました。そこに至るまでの話は全然爽やかじゃないんだけれど、解き放たれたような観後感。

 

物語自体は元の歌舞伎の通り(のはず、観てないから言い切れないけど)なので、そこはそれなりの「価値観とか道徳」が出て来ます。「家」とか「男女」とか「身分」とか、それは色々。

中には「当時の価値観・道徳でもそれは理解されないのでは?」っていうのもあるし、逆に「今とそんなに変わらんくない?」という部分もあった。正直、物語の細部については、歌舞伎の方を見るとまた違った感想が出てくるんだろうな、と思います。

 

難しいのは、「当時は当たり前だった」と「現代ではあり得ない」の折り合いをどうつけるかというところで、「今だとあり得ないから今後世に出さない」なのか「注釈をつけて世に出す」なのか「それがその時代の考え方なんだからなんか言う方がおかしい」になるのかは人それぞれなんだろうな、ってところです。対象にもよるよね。「これは許せるけどあれは無理」とか、嫌悪感って理屈じゃなかったりするし。

結局受け手の「感じ取る力」とそこから「考える力」がますます求められるんだろうな、と思う作品でもありました。面白かった!

*1:入場時にアンケートやフライヤーと一緒にもらった